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思ったことを、とりあえず放言してみるブログ


by aatman

大学院は教育機関なのか

『大学と、大学の先生は、本当にちゃんとした教育をしているのか?』(http://app.blog.livedoor.jp/buu2/tb.cgi/50475616)ということなのですが、これは確かに疑問に思います。現状の大学、大学院修士課程でも、教育というよりは放任、適当に年限が来たら卒業させているだけに見えます。ただ、今のところ、このレベルまではそれほど大きく不利益は出ていない(7〜8割は企業などに就職して社会進出まではできている)と思うので、今回は特に取り上げません。

今回は、6割近くが社会に出れない大学院の博士課程と、博士取得後も大学院に残って研究を続けざるを得ないポストドクター(ポスドク)についての問題、そしてそこに至るシステム、大学院教育そのものについて考えてみたいと思います。


まずはじめに、教育は国家にとって大きな先行投資です。どんな経済的、政治的な対策よりも、国民全体の生産性を上げるような教育ができれば、国のレベルは底上げされ、成長し続けます。国民は豊かになり、税収は増して、グローバル化の進む現代においても、物的、知的生産の中心でいられるからです。

アメリカでは、次の国家目標は科学とその教育の促進であり、それに3年で5兆円と言う規模のお金を注ぎ込むそうです。また、その教育の頂点にあるとも言える博士は、将来の幹部候補で、企業に入った時点で平均給与(400万)の倍以上の給料が得られ、その後も右肩上がり地位も給料も上昇していきます。

一方、なぜか日本の博士は、その1/2〜1/3程度の年収のポスドク職を見つけるのが精一杯で、30代半ばを過ぎると、地位も給料も平行線か右肩下がり、次の職すらおぼつきません。特に大学院では、院生やポスドクが目的を失い、社会に適合できなかったり、あげくの果てには奨学ローンの返済に縛られて、進路変更もままならないまま困窮すると言うのが現状のようです。

もはや、何のために税金を注ぎ込んでまで教育しているのか、そして借金をしてまで教育を受けているのか、意義が見いだせません。結局、大学の研究規模を拡大するために投入された、新規ワーキングプア予備軍という位置づけに終わるのでしょうか。



このような開きが生じてしまう要因のひとつは、教育内容の違いだと思います。アメリカでは、まず博士課程進学時において、「自分の専門でない分野」に関しての企画立案能力を問われます。ゼロの状態から情報を集め、それを理解し、どういう観点からそこに新しい価値を見いだし、未来に結びつけられるのか、それが問われるのです。そしてそれ以降も、ことあるたびにこういった創造性を要求され続けます。この知的創造性こそが博士の能力の本質であり、ゆえに即戦力として企業や社会に迎えられるのだと思います。

悲しいことに、日本の院生がその間に何をしているかというと、指導教員の「手伝い」です。与えられたテーマを手伝うことで、教官が論文を投稿する際に著者リストに入れてもらいます。そして、その功績をもって博士の資格を授与されます。修士からの進級には特段の試験は設けられておらず、望めばそのまま進学できます。指導教員にとっては、修士号まで取った人材が、向こうから金を払って自分の研究を進めに来てくれるのですから、カモがネギ背負ってやって来る状態です。大学院拡充で良い思いをした教員はたくさんいるのではないでしょうか。



なぜ、優秀な頭脳と分別を持つはずの博士が、このような成長の機会がない滅私奉公を何年も続けているのでしょうか。実は、彼らの思考を狂わすシステムとして、業績主義というものがあります。これは、上にもあるような、指導教員を手伝って論文の著者リストに入れてもうことが業績とみなされ、大学職員の選考基準にもなると「考えられている」からです。つまり「業績=成長」と勘違いしてしまうのです(むろん指導教員からおこぼれとしてもらう業績など、いくらあっても社会で価値があるわけはありません。人間的、人材的成長の方が大事なことは言うまでもありません)。

しかも、実際には、業績で決まらない教員公募が数多くあります。これは、業績がある他人が同僚になるより、自分の仕事を肩代わりしてくれる知人がなってくれる方が都合が良いからです。どう考えても事前に知らされていなければ応募できないような公募は多数存在します。これが、同世代で10人に1人、倍率で言えば50〜100倍と言う教員職公募の実態であり、人生のうちの貴重な20代、30代を、借金をしてまで捧げた博士への「報い」なのです。



最近は、このような、いくら大学院で研究しても評価されず、キャリアも上がらず、社会進出もできないという(ポスト)ポスドク問題が社会でも顕著化して来ました。そうすると、「ポストポスドクは大学院を拡充した文科省のせいだから、政府がなんとかしろ」、「ポスドクの問題なんだから自分たちで解決しろ」、「そもそも能力のない人間が大学院に入るからこんなことになるんだ」といった意見も出てくるわけです。

これを外野が言うなら、それも意見ということで認めるべきでしょう。しかし、大学や教員がそれを言ってしまったらお終いです。教え子を矢面に立たせて、どうして違う職に就職しないんだ!そもそも能力がないくせになんで大学院に来るんだ!と、皆の前で叩くわけです。なぜそういうことを「教育者」として平然とやれるのかがわかりません。これには「違和感」どころではない、背筋の寒くなるものを感じます。

なぜ、博士は大学院では非常に役に立っているから、もっと彼らに人間らしい暮らしが出来るくらいのポストを大学に作ろうとか、もっと本来の博士らしい職に就けるように教育しようと言う方向に向かないのでしょうか。

これも文科省や国が職員数を制限しているからでしょうか? 全部命令されてやっただけで、自分には落ち度はないからでしょうか? 自分は学生やポスドクには関わっていないないから、関係がないのでしょうか? そもそも、若手を教え育むべき人材としてみているのでしょうか?



まとめると、日本の大学院はある意味、公務員時代の既得権者による、研究のための封建制度であって、若手が社会に出て新しい価値を生み出すと言った、知的創造力を育む教育機関ではないと思います。大学院で教育される専門性とは、結局、教員を手伝うための専門性です。大学院の拡充による博士の過剰供給は、皮肉にも、このような大学院の澱んだ膿を吐き出させ、白日の下に晒す結果となったわけです。

出来るだけ早く、大学院の教育機関としての機能を見直さないと、国の物的、知的生産性を、全て企業による教育(OJTなど)に委ねる他なくなるでしょう。こうなると、教育を受けても就職できないのは当然として、一度職にはぐれた者が再び社会に参加することも一層困難になり、生産性の大幅な低下と、社会保障費の増大(つまり税収の増大)が懸念されます。

また、科学研究について言うなら、大学の研究機能を解体、分離し、もっとフラットな研究機関を作って、多様性と創造性を重視していくべきでしょう。現在の大学院の惨状を見るに、もはや研究と教育と言うどっち付かずのダブルスタンダードは認めるべきではありません。研究は研究、教育は教育でそれぞれ責任を持つべきで、大学が両方やるというなら、両方に責任を持つべきだと思います。





参考:科学技術人材の活動実態に関する日米比較分析(http://www.nistep.go.jp/achiev/ftx/jpn/rep092j/idx092j.html)
サイエンス・エデュケーションの促進に430億ドルの予算
(http://harvardmedblog.blog90.fc2.com/blog-entry-123.html)


*補足すると、アメリカでも研究リーダーへのキャリアパスは日本に近いものがあります。しかし、それは形式上似ているというだけで、彼らはいつでもその挑戦を止めて、もっといい待遇の職に就くというセーフティーネットがあります。結果、生涯をかけて研究したい者、金銭や豊かさ以上のものを求める者だけが研究の世界に残るというポジティブなフィードバックがかかります。
by aatman | 2008-01-09 13:04 | 教育