思ったことを、とりあえず放言してみるブログ


by aatman

アカデミアから抜け出せないのは博士の能力がないから

小市民の敵は小市民というエントリーと、それに関わる幾つかのエントリーを読み、非常にためになりました。読んでいて、いろいろと大学院時代を思い出しました。これは大学院におけるポストポスドク問題の核心にも重なることだと思います。今回は、それらの要約と、ポストポスドク世代がどう生きれば良いのかについて思ったことについてです。

発端は30歳から34歳が受けた心の傷です。
他の世代が受けられた社会的恩恵よりも、ずっと低い生活を覚悟すれば、仕事は無いわけではありません。しかし、上の世代と比べても、下の世代と比べても、同程度のレベルの人が正社員で暖かい家庭やマイホームを築けていても、同じぐらい、いや、それ以上に努力しても、この世代の人たちにはそんな仕事はなかった。派遣で日雇い労働して狭い部屋で独りで暮らすか、実家の親に養ってもらうか、そういう選択だったのです。
  (中略)
どうしたらいいの? おしえて、ダンコーガイ!
これは、今のポストポスドク世代の博士なら皆、大なり小なり感じたことのあることだと思います。「根拠はないけど、なんとか続けていればどうにかなるよ、オレがそうだから」という上の世代と、「希少な若手研究者として優遇され、気づいたらアカデミックポストに就いていたいた」という(ことになりそうな)下の世代に挟まれてしまうと、もうまともな思考が奪われて、どうして良いのかわからなくなる、それは理解できます。

ダンコーガイ(小飼弾)氏のからのコメントは、記憶とは、傷である。
記憶とは傷なのだ。嬉しい記憶も怒りの記憶も哀しい記憶も楽しい記憶も、すべて傷のなかにある。結局のところ、傷つきたくなかったら何も見ず、何も聞かず、何も嗅がず、何も味わわず、何も触らないしかない。

この記事があなたにつけた傷が、あなたをより豊かにしますように。

ちょっと綺麗すぎる回答かな、と思いました。

ただ、大学院の話で言えば、有無を言わさず大淘汰レースに投げ込まれ、もみくちゃにされて傷ついたおかげで、自分のあり方を見いだすことが出来た人(=勝利した人ではない)は多かったと思います。そういう意味で、疑問を持ったら傷を恐れずぶち当たってみるというのは大事だと思います。


この流れを受けて、今度はsync氏が、
syncは就職氷河期世代として、2001年に今の会社に入社して約7年。いわゆるロスジェネ世代のまっただ中です。年齢は32歳。(中略)

その結果、上司、主任(課長のいいなり)、部長の3人が揃って仕事が出来なくなるほどの嫌がらせがありました。

結局、退職を余儀なくされることになり、転職活動を行っておりますが、これでも僕は「自己責任」なのでしょうか?

それとも産まれてきた時代が悪かった。それだけなのでしょうか?

教えて!ダンコーガイ!

ロスジェネとか雇用とか(一当事者として)+実際あった出来事
と尋ねたところ、またもや弾氏は気前よく答えてくれるわけです。
どんな国の、どんな時代に生まれてくるかは選べない。自らの出生は、確かに自己責任ではない。しかし、どんな会社にどのように勤めるかは、選ぶ事が出来る。(中略)

厳しい言い方だけれども、君は今の君の境遇を会社という他人のせいにしたくてしょうがないようだ。(中略)

誰かのせいにしているものは、結局最後には自分のせいにすることに行き着き、ますます自分を追い込む。まずは「他人のせい」にするのではなく、「自分のおかげ」にするべきだろう。単に自尊心が高まるだけではなく、自分の出来ない事をしている他者に対する尊敬も高まる。(自己責任から自己権利へ
という回答がありました。

いや、この発想はありませんでした。私は、日本の大学システム自体おかしいと思って研究員を辞めましたが、時々、もうちょっとまともな環境(研究、教育、人間環境など)があれば、ずっと研究を続ていけたかもしれないと思うことはあります。しかし、システムのせいではなく、自分の意志で辞めた、今の自分があるのは自分のおかげ、とも考えてみると、納得の度合いが違いますね(特にライフサイエンス系の研究は、やろうと思えばいつでもまた始められますし)。

それから、自己責任から自己権利へに関して、2008-02-27 reponの日記という反論と言うか経験談がありました。内容は読んでもらえればわかると思います。それで、今回の小市民の敵は小市民が来るわけです。
(前略)で、君をここまで「追い込んだ」のは誰だい?

市場経済?日本?君が住んでいる地方自治体?君が勤めている会社という機関?それともダンコーガイ?(中略)

自分の痛みは、結局のところ自分にしかわからない。いや、自分ですら全てわかっているとはいえない。それを他人に何とかしてもらうとしてもらっている時点であなたは袋小路に入っている。(中略)

報われるのをただ待ち続けて、待ちぼうけを食らった事を嘆いても、何も起きない。(中略)待ちぼうけがいやなら、待っていてはいけない。「小市民としての幸福を全うできるような」世の中なんて。「マッチョじゃなくてもそこそこ幸せに生きていける社会」なんて。

それはマッチョになってから考えればいい。ウィンプ(wimp; machoの反対)なままで幸せになろうなんて虫がよすぎる。(中略)

勝てる相手と、戦え。
勝てなければ、逃げろ。
逃げる力がなければ、それを貯めろ。

はじめからマッチョな奴なんていない。マッチョなやつらはそれを繰り返して来ただけ。
これだけは確か。
じっとしてても、ウィンプのまま。
ここから話の流れはマッチョの意見vsウィンプの意見という構図になっていて、その展開はそれでも私は屠り続ける +書評+ いのちの食べかたや、とくに好きな仕事でなくても、すばらしい幸福感に包まれて仕事をする方法召還していないのにマッチョマンから応答が届いたので、せっかくだから質問しますあたりを見ると良いかと思います。


まとめると、今のポストポスドク問題は決してポスドクの自己責任などと言う言葉でくくれるものではないと思います。実際、その責を負うべき者は他にいます。しかし、不遇をかこち、「報われる」のを待っていても、「ポスドクとしての幸福を全う出来るような」世界、「大学に居残っていれば、そこそこ幸せに生きていける社会」が無条件に現れるわけがありません。

今のポスドクの中には、ポスドク淘汰レースを傷ひとつないまま十数年生き延びたのに、なぜかゴールが見つからない(アカデミックな職がなかった、ワーキングプアだった、実はそれほど研究が好きじゃなかったなど)という人はけっこういると思います。これは前のエントリーにも書いた通り、そもそも目的と手段が噛み合っていないので、コースとゴールが繋がっていないからです。このレースでいう本当のゴールというのは、自分を最大限伸ばし、コースから飛び出して自分で道を作る「マッチョ」になることだと思います。「勝てる相手と、戦え。勝てなければ、逃げろ。逃げる力がなければ、それを貯めろ。」です。

こう言ってしまうと、それはマッチョの物言いだという反論もあると思います。私が言えるのは、真の博士の能力というのは、それは大学の外でも活きる、普遍的な研究能力のはずで、生きる力とも言えるものだということです。極論すれば、博士はすべからくマッチョであるべきなのです。大学の外に出れないのは、博士の能力が身に付いていないからです。アカデミアは、ウィンプでも生きていける楽園ですが、住める人間に限りがあるなら、いつまでも周りと自分の境遇を見比べたりしないで、必要な力を身につけてさっさとそこを出て行くべきだと思います。




追記

関連するエントリーの中でも、氷河期の猛吹雪にズダボロに引き裂かれた人々と、グングン成長した人たちなどは示唆に富んだ意見だと思います。
この氷河期は単なる不運ではなく、人災だった。
「誰の責任でもない」というのは嘘だ。
この惨劇の責任を負うべき人たちは、たしかにいる。(中略)

日本経済全体が収縮してパイが減りまくっていたので、誰かが生き残るためには、だれかがババを引かなきゃならなかった。(中略)

(マッチョとは)誰もが「もうダメぽ」「万策尽きた」と絶望するとき、そこから脱出する方法を3つも4つも思いついちゃうような機転の利くイケてるヒーローなんだ。

id:repon氏やid:sync_sync氏が「自分はわるくなかった理由」を10個考え出している間に、「その状況から抜け出す具体策」を10個考え出す生き物がマッチョなんだ。



それでもそんな生き方は出来ない、という人は、 2008-02-27 reponの日記などを読んでみると良いと思います。
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by aatman | 2008-03-06 16:48 | 研究・キャリア